西郷徳利:鹿児島めぐりの旅一覧
2018/03/20 10:16 #011 知覧町・武家屋敷群 | ||
![]() 『西郷徳利が行く 鹿児島めぐりの旅』 第11回は、南九州市知覧町の武家屋敷を訪れました。
薩摩藩と外城制度武家屋敷群は、薩摩藩が江戸時代から行っていた外城制度の中でできた士族の集落です。薩摩藩では、鶴丸城にいる島津本家を中心に各地に領主を置き、領主のお屋敷の周りに麓(ふもと)と呼ばれる士族の武家集落を作りました。 これは広い領土の各地に領主(城)+武士(麓)という定住域を形成してもらって武士の一極集中を防ぎ、藩土全体に軍事ネットワークを作るためでした。 お殿様を増やすとして、家来である武士がいなければ"自称・殿様"になってしまいますが、薩摩藩の武士の割合はなんと人口比25%以上! 他藩がその頃3〜5%が平均なので、圧倒的に武士だらけの藩でした。 そういった背景もあり、外城制度がうまくいく土壌があったのでしょう。 ![]() 武家屋敷は城(領主の屋敷)の周りに造られ、要塞のような役割も果たしています。 実際に行ってみるとよくわかりますが、通りの先がどうなっているか分からない。 垣根で家の入り口もよく見えない。 ![]() 門の前に立っても中がよく見えない。 ![]() という軍事仕様のお屋敷でした。 知覧武家屋敷群には庭に入れるお屋敷が7つほどありますが、すべてのお屋敷がこんな風に「外から来る人に中が見えにくい」造りになっています。 ![]() これは守りやすく、攻めやすい、武家屋敷独特の造りみたいです。 先ほどの写真で「垣根でよく見えない」と紹介しましたが、垣根の内側から通りの敵を狙っていたという話も。 ![]() 反対(屋敷内)から見たらこんな感じ。 敵が見えても手前の塀が防壁になる上にサッと隠れることができます。 優雅な感じを想像していましたが、武家屋敷は「要塞都市」でした。 観光客に大人気取材日は晴れていたこともあり、平日でも大勢の観光客が訪れていました。西郷徳利も、中国人ガイドさんに「お酒?お酒持ってるねー!!」と話しかけられたり(笑) ![]() ちなみに知覧武家屋敷群では、大河ドラマ「西郷どん」のロケが行われたそうで、西郷徳利も同じ場所で写真を撮って見ました! いかがでしょうか。 意外とシンクロできてますか? 観光できる屋敷は庭までしか入れないのですが、皆さん立ち寄って楽しんでおられました。 西郷徳利もお庭を沢山拝見しました。 ![]()
知覧は全国有数のお茶の産地知覧町の特産といえばお茶です!お茶関連の美味しいものを探していると、なんと武家屋敷群にお茶を練りこんだうどんを食べれるところがありました。 ![]() ちらん郷土料理 高城さんにお邪魔しました! ![]() 高城さんの建物は、昭和初期・今から約95年前の古民家です。 さすが鹿児島。「敬天愛人」が飾ってあります。 ![]() 高城さんは知覧の郷土料理を古民家でいただけるお店なのですが、とても風情のあるお店なので外国人観光客が多かったです。 ノスタルジックな店内にぽかぽか陽が当たって落ち着きます。 この日も西郷徳利以外は外国人で、ドイツと英語圏の方でした。 お店の方も慣れているのか、気さくに話しかけて会話が盛り上がっていました。 ![]() ![]() さて、西郷徳利が頼んだのは「茶うどん」 うどんの生地に知覧町特産のお茶を練りこんであります。 ![]() うどんがお茶の色です。 ![]() お味は、お茶の味はしたかしなかったかよく分からなかったのですが、細うどんで美味しく食べやすく、何より雰囲気も含めてくつろげました。 また行きたいなー。 ![]() お茶は知覧茶を出してくれるのですが、濃いのに苦くなくてとても美味しかったです。 ごちそうさまでした。 ■次回 … #012 多賀山公園と東郷平八郎
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2018/03/13 00:00 #010 薩摩藩・砲台跡めぐり | ||
![]() 『西郷徳利が行く 鹿児島めぐりの旅』 第10回は、鹿児島市の砲台跡を巡ってきました。 生麦事件と薩英戦争現代でも歴史の教科書に載っている『生麦事件』。外国人が馬に乗ったまま大名行列を突っ切ろうとして、「無礼である」と怒った藩士に斬られ、1名が死亡、2名が重傷を負った事件です。 この事件に出てくる大名その人が、薩摩藩国父・島津久光であり、相手側の外国人はイギリス人でした。 行列には、大久保利通・海江田信義(有村俊斎)・松方正義・小松清廉(帯刀)など、幕末・明治に活躍する薩摩藩士もいたようです。 最初に斬りかかったのは、寺田屋事件でも久光公の特命を受けていた奈良原喜左衛門。 止めを刺したのは有村三兄弟の長男・海江田信義(有村俊斎)と言われています。 2人とも薩摩藩の古流剣術である薬丸自顕流を学んでおり、特に奈良原は達人と呼ばれていました。 奈良原は馬上の人間を、抜刀しながら飛び上がり「抜き」で斬ったといわれています。 桜田門外の変で井伊直弼を討ち取ったのも、薬丸自顕流の使い手で海江田信義(有村俊斎)の2つ下の弟・有村次左衛門です。 何やら強くて怖そうな想像をしてしまいますが、奈良原と海江田は薩英戦争時「スイカ商人に扮して敵艦を奪おうとして失敗」するようなお茶目な一面も。
生麦事件が起こったのは1862年。 日本は当時、ペリー提督・黒船来航で1858年に開国済み。 外国人を受け入れていましたが、まだ武士の世界であり、事件のイギリス人は日本の社会に詳しくない観光客でした。 そもそも日本では、大名行列には道を譲るのが決まりであり、横切ったり行列を乱す行為は非常に無礼な行いとして「無礼討ち」も認められている時代。 久光公の行き(参勤)でも生麦事件と同じようなことがあり、その時は幕府に「外国人の不作法」について訴え穏便に済ませたようですが、帰り(交代)はそうもいかなかったようです。 大名の沽券に関わる上に、血気盛んな薩摩藩の大名行列です。無礼討ちになってもしょうがなかったのかなという気がします。 日本人にとっては道を譲って当然の大名行列も、外国人観光客にとっては「なんか人がいっぱい来た」だったのでしょう。 生麦事件のあと、久光はさっさと薩摩藩に帰ります。 幕府はイギリスからの犯人の差し出し要求や賠償金の支払い要請に苦労していましたが、久光は無視。笑 埒が明かないので直接交渉しようと錦江湾に船で到着したイギリス艦隊ですが、ここでも引かない薩摩藩、交渉決裂して薩英戦争に発展します。 1863年のことでした。 面白いことに、薩英戦争で薩摩藩が総動員体制をとったおかげで、寺田屋事件で謹慎していた西郷信吾(従道)や大山弥助(巌)の謹慎が解かれます。 ここが近い未来につながってくるのです。 斉彬が将来を見据えて製造した大砲前置きが長くなりましたが、この薩英戦争で活用されたのが、斉彬が製造した大砲です。
1851年、斉彬は藩主となってから殖産興業に着手し、島津家別邸・仙厳園の横で集成館事業を始めました。 集成館では紡績・造船・製鉄が行われ、大砲を作るための反射炉も作られました。 仙厳園には今でも反射炉跡が残っています。 富国強兵・殖産興業を推し進める斉彬は、作った大砲を次々に配置します。 ![]() 祇園之洲・弁天波止・新波止・南波止・大門口・天保山・袴腰・鳥島・赤水・沖小島と、錦江湾の両側から包囲するような配置です。 薩英戦争は斉彬が亡くなって5年後のことですが、まるでイギリス艦隊が攻めてくるのを予見していたかのようで凄いですね。 この大砲が薩英戦争で活用されたのですが、今は砲台跡として残っています。 石碑だけのところもありますが、祇園之洲・新波止・天保山砲台跡は、当時の様子がうかがえる素晴らしい史跡です。 広い!大きい!砲台跡まずは祇園之洲砲台跡へ。祇園之洲砲台跡は鹿児島市の北ふ頭近くにあります。 ここは1995年の8・6水害で移設された江戸時代からの石橋や西南戦争の官軍戦没者慰霊塔があったりと、他にも見どころ満載で公園として整備されています。 ![]() 取材日も晴れていてとても気持ち良かったです。 ![]() 移設された石橋を渡ったり猫とたわむれたり、公園を散策しながら進みます。 砲台跡は公園の奥のほうにありました。 ![]() ここが祇園之洲砲台跡の始まりです。 薩英戦争時の大砲を載せていた石垣がそのまま遺っています。 ![]() こんな感じで当時のまま。 ![]() ![]() 石垣は公園の外周一辺以上ぐるっと長く続いていて、果たして何門くらいの大砲が置かれていたのでしょうか。 すぐ上の写真の矢印から矢印までが砲台跡なのですが、写真の手前、撮影者の背後にもずっと続いています。 ![]() こちらはパノラマ撮影。 ![]() 砲台の案内板も薩英戦争について書かれていて一読の価値ありです。 お次は新波止砲台跡へ。 ここは砲台を作った時の地形がそのまま残されているところで、鹿児島市の北ふ頭にあります。 ![]() 西郷徳利の右手に見えているのは、桜島フェリーの発着所。 ![]() 画像にもある通り、海に面した石垣が、新波止砲台跡そのものなのです。 桜島フェリーに乗れば、全体を見渡せると思います。 ここもかなり広い! かごしま水族館を囲むように、砲台跡を生かした開発が行われたようです。 ![]() ![]() ![]() ![]() なんとなく当時の想像が膨らむ残し方です。 ![]() ここにも生麦事件から薩英戦争まで詳しく書かれた案内版があります。 最後に、天保山砲台跡へ。 ![]() 天保山砲台跡は、鹿児島市の天保山公園にあります。 天保山は斉彬時代に藩士の訓練場があり、斉彬の御陣屋敷もありました。 1858年、上洛前の訓練中に天保山で倒れて亡くなります。 ![]() ![]() ![]() 天保山砲台跡は松林の中にあり、他の二つよりも昔の跡が残っていました。 ここも野球ができる公園を囲むくらい広くて大きい砲台です。 砲台跡はどれも海の近くで、強風にあおられつつの取材でした。 お腹もすいてきて温まるために天保山砲台跡近くのそば茶屋吹上庵さんへ! そば茶屋さんは水車が目印の鹿児島でおなじみのお店です。 かなり寒かったので峠なべを注文。 峠なべは人気メニューで、この日は右も左も峠なべを頼んでいました。 ![]() アツアツの鍋焼きうどんにエビ天・ちくわ・三つ葉・しいたけ・おもち2個・卵と、大満足のおいしさです。 そば茶屋さんは県内各地にありますので、探してみてください。 薩英戦争のその後薩英戦争に話を戻すと、薩摩藩は戦死者こそ少なく死傷者63名のイギリス軍を撤退させたものの、被害が甚大でした。市街地や弾薬庫などの軍事施設を破壊され、薩摩藩の十文字砲や自在砲と、従来の10分の1の時間で装填できるイギリスのアームストロング砲に大きな差を実感したようです。 しかしここからが薩摩藩のおもしろいところで、イギリスとの和睦交渉の中で「軍艦購入」を取り付けます。 また、費用は幕府から借りて、返しませんでした。 和睦の条件にある犯人も「逃亡中」とシラを切って罰しませんでした。 そしてなぜか戦争相手だったイギリスと仲良くなり、1865年の薩摩藩英国留学生へとつながります。 薩英戦争のわずか2年後のことなので、歴史はおもしろいですね。
■次回 … #011 知覧町・武家屋敷
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2018/03/06 00:00 #009 照国神社 | ||
![]() 『西郷徳利が行く 鹿児島めぐりの旅』 第9回は、鹿児島市の照国神社へ行ってきました。 照国神社は島津家と密接な関係が!鹿児島市にある照国神社は、鹿児島の中心街・天文館のすぐ近くにあり、鹿児島市民にはおなじみの慣れ親しまれた神社です。祀られているのは、島津家第28代当主・島津斉彬。 大河ドラマで渡辺謙さん演じる、斉彬公がまさに祀られています。 ![]() こちらは大鳥居。 かなり大きいので少し離れた場所から記念撮影。 場所は天文館から歩いて行ける距離、城山を背後に薩摩藩のお城だった鶴丸城跡の一角にあり、島津家との縁の深さが分かります。 ちなみに照国神社の宮司さんは、島津家第32代当主・島津修久さんが務めておられます。 この照国神社、もともとは南泉院というお寺でした。 鶴丸城が1601年に島津忠恒(家久)によって築城開始され、その後1710年、第21代当主・島津吉貴によってお城の並びに南泉院が創建されました。 歴史の中では、この南泉院の子院である吉祥院に税所篤の兄・乗願がいて、島津久光に囲碁を通じて大久保利通を紹介したりします。 藩内有数の大寺院として親しまれた南泉院ですが、明治維新後の廃仏毀釈によって破壊されてしまいました。 薩摩藩は廃仏毀釈が激しかったらしく、鹿児島県内の多くのお寺がなくなりその場所が神社に姿を変えています。 照国神社は鹿児島市民おなじみの神社照国神社には、初詣やお宮参り・七五三などの年中行事で多くの鹿児島市民が訪れます。中でも、鹿児島独特のお祭りで「六月灯」というものがあるのですが、照国神社の六月灯は規模も大きく毎年賑わいます。 旧暦で行われるので、七月開催ですが"六月灯"です。笑 では、さっそくお詣りします! ![]() 石灯籠も島津家仕様ですよ! ![]() 大鳥居をくぐると、立派な盆栽?が見えてきます。 「斉鶴」というそうで、確かに鶴が翼を広げているようにも見えます。 小正醸造も鶴マークなので鶴繋がりが! 奥の山は城山、山の上に見える建物は城山観光ホテルです。 城山は西郷隆盛が最期を迎えた場所で、周辺は西南戦争の史跡がたくさんあります。 ![]() 手水をして神門をくぐります。 ![]() こちらが照国神社の本殿。 大きな神社ですが、慣れ親しんだ安心感があります。 さて、お詣りを済ませた西郷徳利が向かうところといえば社務所! 今回も御朱印をいただけました。 ありがとうございます! ![]() 3人の島津さん歴史好きな方は、照国神社に来たらお詣りだけではもったいない。本殿向かって右に進んでみてください。 照国神社の御祭神である島津斉彬公の大きな像が現れます! ![]() 西郷・心の師匠・・・。 ![]() その隣には薩摩藩から戊辰戦争に従軍した兵士の顕彰碑があります。 ![]() 戊辰戦争は明治維新の年に起こった、新政府軍(西郷たち)と旧幕府軍(徳川慶喜側)との内戦です。 この戦争で西郷は新政府軍の指揮を執り、活躍しました。 斉彬公の像からさらに右手に行くと、今度は斉彬の弟・久光公の像が現れます。 ![]() 久光公は斉彬の腹違いの弟。 お母さんはお由羅さんで、薩摩藩を内分したお由羅騒動のその人です。 大河ドラマでは小柳ルミ子さんが演じていますね。 久光の母・お由羅は次の藩主を久光にしようとして騒動になりましたが、斉彬と久光は互いに仲の良い兄弟だったようです。 久光は兄を尊敬していたし、兄の遺言に従って子の忠義が藩を継ぎ、自分は藩主にも当主にもならず国父という立場に収まっています。 (ただし権力は保持!笑) それでもお互いが大嫌いだった西郷と久光。 実質的な藩の最高権力者の命を、西郷は何度も無視します。笑 久光像からさらに道路のほうへ下ると、今度は島津忠義像が現れます。 ![]() 前の2人と違い、洋装で大鳥居の方角を向いています。 ![]() 照国神社は、薩摩藩最後の3人の島津さんが見守っています。 お詣りに来たらちょっとだけ遠回りしてみてください。 忠義像がある公園の看板で、南泉院があったころの地図も確認できますよ! ![]() ■次回 … #010 薩摩藩・砲台跡めぐり
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